【ggrks、ちゃんと読めるかしら?】としあきがつき、2chねらーがこねし「夢蝕童帝ウプレカス」の世界

おおよその画像が絡んだ黎明期のネタはとしあきの仕業である

 「壺に帰れ」
 などとにべもない反応をしながらも、なんだかんだで仲良く喧嘩していた双葉と2ch。その両方が絡んだ時、たいていいい方向でロクでもないことが起きる。まああの時期はそうだった。
 当時はP2Pソフトの違法アップロードがまかり通っていた…いや、今も「漫画村問題」なんかもあるし、とどのつまりいつの世も
 「無料でほしいもの手に入れたァ~い」
 だ。その中でも「二次元エロ画像」に関しては1枚絵であれ昔はかなり貴重だった。しかし出元がよくわからないものだと、そりゃ詳細を聞きたくなるのが下半身の悲しいサガ。
 「このエロ画像の詳細キボンティーヌ」
 と双葉に画像を貼って出そうものなら…
 「ググれカス」

ローマ人っぽい響きから生まれた派生キャラ達次々登場

 双葉二次裏mayで最初に生まれたのは「ウプレカス」が先である。
 詳細不明の画像を貼り、アップローダーに元ネタを置いてね、というまあ著作権的には違法な行為を要求する不逞の輩を揶揄するために、最初は生まれた。

 それに対するキャラクターとして「ググレカス」が作られた。

 なおこの肖像自体は彫刻関係では教科書に載る程度の有名なトルソーらしく、のちにウプレカスは(※まあ本来の名前の方で)ガチャにもなっている。
 ググレカスの方は、のちに2chに輸入されてそうなったのか、それとも双葉が先だったか。「ggrks」と略語も作られた。またレス画像「ダガ・コ・トワル」、本当にアップする「コニウプ」、第三者による「ショウサイ・キボンティーヌ」など。実に多彩なキャラクターが生まれ、やがて正伝と化した。

としあきたちによるわかりやすい相関図


 登場する人物についてはこの相関図を見て頂ければわかるであろう。
 この相関図をもとに、おそらく「そういうストーリーだったんじゃねえの?」と類推することにする。アンサイクロペディアとか見ずに。今回は見たら負けな気がした。オリジナルストーリーを考えることにする。

 「ウプレカス伝」を編纂した歴史家ポムレカスだが、「ロムレカス」と誤記されることがあるが、ローマ市のニジウラ・メイ地区遺跡第29次発掘の際に出土した石板においてこの名前であることが確定した。なおこの相関図に記されていない、ウプレカスに関する詩作を少なからず輩出している詩人「テラワロス」とは犬猿の仲であったとされ、「ウプレカス伝」作註において「壺の中に沈めてアドリアの海に帰してやりたいところである」とまで評している。

 皇帝カンリニヌス(生没年不明)の治世下において、ウプレカスは物資供給の自由を求め師匠の商人・コニウプとともに乱を起こした。皇帝はこの乱に「チョサクケンホゴの思想」(※現代訳・詳細など不明)に激しく逸脱するものとして、それを遵守するべく激怒した。必ずやかの、悪逆非道の暴徒を鎮圧せねばならぬ。将軍マジレス、ウプルナカス、ダガ・コ・トワルなどを派遣、各地の鎮圧を図った。このとき宰相であったググレカスは中立・不戦派であったと言われており、物資を求める暴徒に対し「言葉を以て求めよ、さらば探し物は見つかるであろう」と諭したとされる。
 しかしウプレカスと親友であったアプレカス率いる大勢の軍勢が、この言葉に従い向かった先「ウィニー島」(※アドリア海の47番目の島付近と記述があるが、場所は不明である)において特殊兵器「キンタ・マ」なるものにて虐殺を受けるという惨事が起きる。これにより反乱軍の中心人物であったアプレカス、兵站を担っていたパスハ・サゲ、サンクス・トンクス兄弟など多くの有力者を失うことになった。
 なおこれには皇帝側の提督ニイデオトス(ウィニー島出身であったとされる)の関与も否定できないが、詳細は不明である。
 またウプレカスの元で皇帝軍との交戦にあたっていたとされる将軍レンバリーも、参謀スンド・メとの策により自らの元に物資を蓄え、ウプレカスの元には届かないよう仕向けていた。

ウプレカス「なんだこれは、中身とはまるで違うものではないか。私が要求したものとは違う。」
サムネ・イル「そんなことはございません。こちらは確かにそれでございます」
 サムネ・イルがウプレカスに要求されたものは大量の肉であったが、しかし実際に流されたものは大幅に圧縮された干し肉で、しかも彼が要求した牛や羊などの大型獣ではなくうさぎなどの小動物の類ばかりであったという。
(ウプレカス伝15章「ウプレカス、エスカルゴを食べる」より)

 このような混乱状態ののち、形勢不利と見るやコニウプはウプレカスを誅殺。皇帝に帰順を表明。これによりウプレカスの乱は終わりを遂げた。…が。
 物資の不正供給は完全には無くなることはなかった。これは皇后ショウサイ・キボンティーヌが中立派であったことや、ニイデオトス、また豪商であったラノベーなどからの豊富な援助がそれからも続いていたからとされる。

くれぐれも言っておくが、全部ウソだぞ!!

 皇帝派閥内でも軋轢が起こった。ニイデオトスやダガ・コ・トワルなどは比較的内乱軍に同情派であり、特にニイデオトスは流通技術の解放を内乱軍にひそかに行っていたとされている。これに対し強硬派のウプルナカス、マジレスなどは「チョサクケンホゴの思想」を重きにおいていたため、「ウィニーの弾圧」の戦果に非常に喜んでいたとされている。

マジレスはたいそう喜んだ。「絶対に許すにあらず、三日後には百倍にして返す、これが皇帝軍の戦である。よいか皆のもの。成人した男子たるもの、斯様な輩に卑下されることは絶対に許されざる恥なのだ。」
(「ウプレカス伝」34章「ククルス・ドアンの島」より)

 将軍マジレスは内乱終結後、相関図には記載されていないが配下のピルス、パヨックなどとともに「フタバ・ノヴ地方」にて暗殺されることになる。
 その後カンリニヌスの力が大きく衰えた時代になっても、ググレカスは長命であり、なお健在であった。「ウィニーの惨劇」には直接関与していないという説もあり、彼に関しては詳しいことはここまで「ウプレカス伝」のみが有名になっている状況であるが、今後発掘が待たれる詩人テラワロスの詩作と絡め、今後発見される史料の発見を待つばかりである。

 なお彼らの子孫については「キボンティーヌ隊長」なる人物が現代においてテロ組織を率い、破壊工作を行うなどで国際手配を受けているが犯行声明の際、「ショウサイ・キボンティーヌの末裔」と名乗っている。実否は不明である。

文責:トニー・ユリアキ・トウゴウ(双葉大学虹寝学科元教授、現インターネット老人大学非常勤講師)

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